今、僕が公務員試験を受けるなら志望部署はこう書く

おかげさまで当ブログもすこしづつですがアクセス数が増えてきました。

ブラック企業を転職して最終的に23区の役所に合格するまでのサクセスストーリー、公務員試験について、ケースワーカーという仕事についてなど、書きたいことは山ほど山積していますが(頭痛が痛いパターンね笑)、サクセスストーリーだけで40話近く行ってしまいそうで、なかなか他に手が回りません。

ですので、今回は番外編として、以前から書いてみたかった公務員試験編について、お試しで書いてみようと思います。

僕が公務員試験を受けると仮定し、どんな志望部署を書くかについて、現役公務員だからこその立場で書いてみたいと思います。

というのも、実は僕、公務員試験における志望動機で見当違いのことを書いていたため、それだけでもかなり減点要素になりかねない内容になっていました。当時のことを思い出して書いてみます。↓↓

日本の少子化ストップに貢献するため、子ども・子育て関連の部署を希望したい。理由について、日本の合計特殊出生率は1.45で、中でも東京の合計特殊出生率はワーストの1.15である。公務員は法人ではないため、自らが利益を生み出すことは難しく、今後の区政運営を考えると、出生率の低下は財源の減少に直結するため、合計特殊出生率の改善が急務と考えるからである。

もうね、これ、全然ダメ!!笑
よく全体順位1桁台で受かったわ (`・ω・´)キリッ(まじ)

何がダメかというと、大前提として東京都は本気で少子化対策を考えていません
日本は高齢者の国です。政治家は票田の高齢者ばかりを重んじているあまり、票にならない若手世代(次世代をになう若者)のことは考えていません。国会・県知事・都知事・区長の方々の考えることは皆同じ。いかに当選(再選)するかどうかです。
(なお、最近では本気で少子化対策に取り組んでいる知事も中にはいらっしゃるようで、全国に波及できるよう頑張ってもらいたい所です。)

少子化対策に本気で取り組みたいのであれば、せめて区議会議員や区長にでもならないと話にならない。つまり志望する職業が根本的に食い違っていることになります。

また、区役所の業務では少子化対策の仕事はできません。区役所の仕事は最も区民に近い基礎自治体ですので、子ども関連の部署では、例えば妊娠・出産、保育園入園から中学校までの切れ目のない総合的なサポートが主たる業務ですので、「少子化対策としてこんな提案がしたい」というアイデアを形にできるわけではありません。職員提案制度で提案くらいはできるかもしれませんが、自分の力だけでは限界があります。
少子化に貢献したいという思いは今後の日本の行く末を思うと大変素晴らしいテーマだと思いますが、理想と現実は切り分けて考えなくてはいけません。志は高くとも、実践的なテーマを選択しなければなりません。

もし、少子化というキーワードを盛り込みたいのであれば、下記の切り口で語ってみるのはありだと思います。たまたま僕がケースワーカーなのでこんな文章を考えましたが、他の部署でもそれぞれアピールに繋げることはできると思いますので、あくまで参考程度に見てほしいと思います。↓↓

私は福祉事務所ケースワーカーを希望したい。理由について、特別区において少子化に歯止めがかからないため、今後、財源や職員の減少は免れられないと考える。そのため、職員個々人が今以上に能力を高め、仕事の徹底した効率化が必要である。私は民間で培った、得意先との折衝するスキルや、エクセルやアクセスを中心としたパソコンスキルで貢献できると考えるが、一方で特別区の業務内容は当然知識が足りない。
私が志望するケースワーカーの業務は多岐にわたり、生活保護利用者の支援はもちろん、介護・障害・国保・戸籍・年金など、職員が基礎的に知っておくべき知識に広く触れることができ、結果として効率よく様々な知識と経験が積めると考える。また利用者の多くは様々な働けない理由を抱えた社会的弱者も多い。こうした区民と実地で関わることで、今後ますます重要になる福祉分野への理解についても深まると考えるからである。

うん、良い!(自画自賛笑)
ポイントは、自分はどんな人間なのか、どんな能力があるのか、能力をどうやって活かすのか、どんな能力がないのか、ないものを補うためにはどうすれば良いのかというあたりをうまく志望部署とリンクさせる必要があります。

参考程度ですので、上記の内容には誤り等があっても切の責任は持ちませんので、予めご了承ください。
自身の経験とこれからの自分というあたりを考えて、魅力的な志望部署及び志望動機を考えてもらう参考になればと思います。

#25 八木沼という男

僕が辞める要因。それはもちろん人間関係が原因だった。

ここで新しい部署の課長について触れておく。40代くらい、にやけ顔を見ると絶妙に腹が立つこの男の名前を、ヤギのような顔つきから八木沼とでも呼んでおこう。
八木沼は僕が司会を務めていた生産会議にはあまり顔を出さず、表舞台には出ず、権力のある部長にへこへこし、どっちかというと目立たない、課長としてのレベルは中の中くらいの男という認識だった。

八木沼は僕が着任するとすぐに対面での簡易ミーティングを行った。
冒頭、僕は信じられない言葉を聞いた。
(僕の内申書らしき書類を見ているようで)「お前会社に入ってから一度もB評価以上取ってねぇのかよ、ったく信じられんわ」と。

大阪のときの課長は感情で話すタイプでは無く、理論で攻めてくるタイプであった。
それに比べると八木沼は感情や言葉の汚さで罵ってくるタイプの人間であった。

なんて失礼なヤツだ。と思うと同時に、自分の立場も理解していた。
情けない。着任早々こんなことを言われるなんて。
僕は言い返す言葉も見当たらず、ただただ浪費してきた営業時代の自分の成績を呪った。
そして僕は悟った。こんな冒頭からフルパワーで攻めてくるか?こいつは俺を潰しに来ているかもしれない。

実際、営業をしていると僕に攻撃を仕掛けていると思える行動や言動は次々と出てきた。
あまり言葉の細部は思い出せないが、初めて営業日報を提出したとき、「ふーん、文章はまぁまぁ書けるじゃん(ニヤケ顔)」というセリフは今でも覚えている。そんないちいちイラっとさせる言葉をねちゃねちゃと言ってくる。

この男と裁判になった場合、音声を全て録音していればおそらく僕が容易に勝てるであろうと思わせるほど執拗に粘着してきた。
ただ、当時の僕からすると、仕事面、人間関係両方で窮地に立たされていたため、裁判とか、社内通報制度などといった救済措置に頼る気力もないほどに疲弊していた。

今、当時のことを振り返ると、精神的に疲弊しているといってこちらから一方的に長期休暇を申し入れ、その間に転職活動をすれば良かったと思う。自分の感情が壊れるくらいなら、休暇に入るという選択肢は、僕はありだと思っている。

実際、僕はこの上司のもとで体を壊す寸前まで追い詰められた。
慢性的なストレスで胃腸が弱くなり、過敏性腸症候群の手前のような状況に陥った。
今でも仕事で一時的にストレスに感じるときなど、おなかが緩くなることがある。

この仕事を半年ほど続けた頃、感情の起伏が減り、笑うことが減り、ただただ会社にいることが苦痛になってきた。彼女とも相談し、遂に転職を決意することになった。

#24 謎の営業部

広域営業課。広域は広いエリアという意味だと勘違いしていたが、そういう意味では無かった。

通常、我々は塊として加工された鉄を鉄の加工業者に卸すのが仕事だ。
だが広域営業課の仕事はそうではなかった。
僕らの得意先は車会社や鉄道会社など、すでに加工された鉄を納める末端ユーザーへの営業だったのだ。

普段は加工業者に納品している僕らが、例えば車の製造会社に営業に行くようなものだ。

車の製造会社は我々が作る鉄の塊がほしいわけではなく、ある程度加工され、自動車の形に近くなった鉄がほしいわけで、加工業者から購入するのが普通である。先方は当然そんなもの要りませんとなる。

しかし、広域営業ではここが肝のようで、こんなうたい文句を言う。
「鉄の加工業者から購入すると、加工業者が不当に工賃を上乗せするかもしれませんよ。そうならないように、御社に一度鉄を買い取ってもらい、それを加工業者に売ってください。そうすれば不当に上乗せできた工賃が丸分かりになるから、加工業者も吹っかけることができないですよ。その工賃分を折半して一緒に儲けましょう」と。

今の説明は話を単純化したので、言っていることはなんとなく理解してもらえると思うのだが、その話に市況価格や計算式などを当てはめると話はもっと複雑になる。

驚くことに、僕はここに配属されてから会社を去るまで遂にこのスキームを覚えることができなかった。(今もわからない)
僕も最初は覚えようと必至だったが、周りは僕のことを好意的には捉えていないようで、僕に仕事を教えてくれるような社員もいなかった。この時点で周りの営業からも浮いた存在になっていたと思う。

僕がいままでやったことのある営業はルート営業と言い、すでに顧客となった会社に通い、品質の話、競合他社の話、新商品の話などを収集して次の売上に繋げることだったが、今度の営業は全く別で、ほとんどが新規の会社であった。

一度も商品を買ってもらったことがない客に会いに行き、スキームを買ってくれませんか?と提案し、市況の話をする。客にとっても大口の取引となるため、そう簡単には購入できず、今は様子見だから、とりあえずまた来てください。と、やんわり断られる。

これは本当の話、約半年ほどこの仕事をしたが、新規販売はゼロ。(他の営業員もほとんどゼロ)もはや自分がなんで得意先に通うかも分からず苦痛でしょうがなかった。

この商売の複雑さも僕を疲弊させる要因の一つであったが、もう一つ、僕が会社を去る決定打になった出来事があった。

#23 最後の1年

横一列で始まった社会人レースの第一関門。何十人もいる中で僕(と他数名)だけ昇進できなかったことで、かなりの精神的ダメージを負うこととなった。

今になってよくよく考えてみると、昇進できなかった理由が様々浮かんできた。
営業ではパッとせず、事なかれ主義。自発的に動く気概もなし。異動した業務課では現状維持。難しい課題は見なかったことにした。課題を無視した僕にそれでいいんだな?と言った係長の発言の裏には、「昇進はないぞ」という隠れた意味があったのだろう。

そういえば営業時代、課長はなにかの気まぐれなのか一度だけ僕に成績開示をした。
課長の待つ部屋に呼ばれて告げられた評価は「CD」。
CD?音楽みたいだな笑と心のなかでつぶやいたが、普通がC、普通より下がCDだった。
僕は当時課長との折り合いが悪く、むしろCD位で済んで良かったな。とまで思ったくらいだ。今思い返すとこのことに危機感を感じられないほどにまでズレていたと思う。

この「無昇進事件」があったことで、僕はこの会社に必要とされていない事実にようやく気づいたのだった。気づけば入社して4年もの月日が流れていた。

そして、僕が会社を去るラストの年が始まった。
なんと、また異動があった。異動?バカな…

この一件でまた僕は自信を失った。
前も触れたが僕は自分の仕事をなかなか気に入ってたし、自分がいないと回らないなどと過信していた。僕を異動させるのは良いけど、この仕事ができる器用な人はいるのか?などと(今から思うとすごい慢心)思っていた。

僕の後任は今まで一緒にやってきた係長だった。係長はもともと東京の工場を回していたし、かなり残業は増えるけど、やってやれないことはないだろう?と上層部から指示され、(おそらく無理くり)僕の仕事分を純増させられることになった。

係長に引き継ぎを終えると、係長はそれ以降一切仕事の仕方について聞いてくることは無かった。係長はおそらく爆増したであろう仕事の文句も言わず、自分なりに理解していたようであった。

僕が苦戦して覚えた仕事は造作もなく後任に委ねられた。このとき僕は思った。自分にしかできない仕事などないんだと。自分がいなくなったあと、必ず誰かがその仕事を引き継いで、そつなくこなしていく。
会社が大きな車だとしたら、社員はその一つ一つの小さな部品。部品が無くなっても変わりの部品はいくらでもある。かみ合わせが多少悪くても、じきにこなれて円滑に回るようになる。この事実もまた、僕の心を揺さぶった。

そして、僕にとって最後の部署について説明したい。
最後の部署の名を東京スクラップ広域営業課と呼んだ。

#22 自分ができない側の人間と気づいた日

係長から物流費の課題を課されてから、1週間、2週間…どんどん月日は過ぎていく。
係長からは進捗の確認も無い。

僕は「どうせ上が思いつきで言ったんだろう、それにもうこんなこと忘れただろう」と高を括った。大いに括った。それ以降この課題に真剣に取り組むことは無くなり、今までと何も変わらない惰性の生活を再び送ることになった。

僕が課題のことをすっかり忘れ去ってからしばらく経ったある日、係長が珍しく語気を荒げ、僕を詰問してきた。

物流費の件、何もやらないのか?それでいいんだな?
僕は自分の中で無かったことにしつつあった問題を掘り起こされ、少し冷や汗をかいた。
そうですね、やり方もよくわからないし。。と言ってはぐらかす。
すると一言。分かった。と言った。

ふう、これでこの件はおしまいかな。結果的に嫌な感じだったが、やり方もわからんし、これで良かったのかな。

このやり取りの後、しばらくするとその日はやってきた。

会社に出社すると、パソコンのポータル画面に社員の昇進についての文書が貼り出されていた。僕は全くピンと来なかったが、その文書を読み進めると顔面蒼白になっていったことはよく覚えている。

僕の同期の名前が次々と掲示され、位が一つずつ上がっている。
ここで言う位とは主任や係長といった役職ではなく、J1からS3(ジュニアからシニアだったか?)へ階級が一段階上がるようなものであった。Sに上がると次は主任が見えてくる。当然給料も微々たるものだが上がる。

僕の名前はどこにあるだろう。それくらいの感じで読み進める。
しかし見当たらない。

僕の心当たりのある同期は皆一様に昇進しているが、僕の名前は見つからない。
いったい何が起きてるんだ?

この出来事は今思い返しても本当に辛いし、当時はショックよりも恥ずかしさの方が上回ったのを覚えている。ほとんどの同期が昇進する中、僕の名前がどこにもない。

同期は僕の名前が無いことをどう見るだろう?笑うのだろうか?不思議に思うのか?
僕はこの状況で冷静でいられるほど鈍感では無かった。人並みにプライドもあった。自分一人で工場の生産をコントロールしていた自負もあれば、僕がいないと営業は回らないとさえ思っていた。そんな僕が昇進できなかった。。

#21 分岐点

僕が東京に来て配属された東京業務課は、僕と係長、そして女性社員2名の計4人の小規模な部署であった。

係長は僕が東京で研修を受けたときにマンツーマンで教えてくれた人で、仕事上では頼りになり、周りともうまく付き合うが、多くの社員と違い、群れることを嫌う孤高の存在であった。

この会社ではある程度上の立場になるほど派閥のようなものに巻き込まれるが、それに属さずとも自分の才覚だけで渡り歩く稀有な人であった。

ちなみにこの係長も数年前、退職したという情報を伝え聞いた。ただし、会社に愛層をつかしたのか、貯金が貯まったからなのか、真意は不明であるが、自らの意思で退職したと聞いている。

僕が東京に異動してからも基本的な業務は何も変わらなかった。
工場のスケジュールを作って、生産枠を決定して、工場と微調整をして…。僕はこの頃には業務に習熟しはじめ、残業時間もかなり削減できたため、仕事もほどほどに私生活に打ち込むことが増えた。

今までの生活では全く考えられなかったが、私生活はどんどん充実し、ジム通い、登山、ボルダリング、マラソン、ダーツなどアクティブな趣味をどんどん見つけ、生活における仕事の比重はどんどん減っていった。

伏線回収であるが、大阪に配属された直後にテレビ電話で「やる気のない人だなぁ」と思われた同期(今の奥さん)と付き合い始めたのはこの時期である。

そしてこのころ、係長から僕の運命を決定づけた課題が課せられることになった。

それは生産した商品を全国に配送する際の物流費を減らせというミッションであった。
係長は物流費を減らせと言っても、やり方はお前に任せるとの話であった。

どうやらうちのトップである事業部長からそんな指示があったようだが、実際にこれをすれば軽減できるという青写真すらなにも無い状況で急に言い渡されたのである。ちなみに僕の業務は生産管理が中心で、物流については門外漢だった。

この課題は僕が最も苦手とすることであった。無から何かを生み出す。前例の無いことに向き合う。

もちろんこのときは何か手段があると思って、物流課の同期と話したり、過去の資料を漁ってみたりしたのだが、物流費の下げ方など皆目見当がつかなかった。また係長も自分で課題を出しながら、これをしてみろなどと言わないタイプの人間であった。

#20 東京

と…東京!!

ついに、ついに僕は東京に戻ることができる!
僕は一人その興奮を噛み締めていた。

東京に異動になったのはもちろん理由があった。東京にも大阪と同じ業務課があったのだが、僕一人がそこに吸収されることになったのだ。

当初の会社の目論見では、大阪と東京に業務課を置いて、西と東の生産の要としてそれぞれを機能させたかったようだが、早速大阪が例の課長の件で沈没したため、それならいっそ東京でまとめて管理したほうが都合が良いという判断だったみたいだ。

このとき、入社してから実に3年という月日が流れ、僕は遂に故郷の土を踏めることになったのだ。

変な話だがこれだけの月日が流れていたが大阪になんの未練もなかった。ひとくくりにするのは申し訳ないが、僕は出会った大阪の人とはほとんど打ち解けることがなかった。

僕に大阪を受け入れるだけの心の余裕が無かったと思うし、自分の閉鎖的な性格の問題もあっただろうし、初めて働いた職場のミスマッチもあった。僕は最後まで大阪のノリ、人間を好きになることができなかったのである。

ウキウキで東京に戻るとまず会社の寮に入ることになった。会社の寮は千葉にあり、激混みで名高い総武線での通勤となった。

部屋は会社で一人暮らしを始めてからは一番キレイな部屋で、バス・トイレ別の1Kで2万円。
東京本社(東京駅)からは遠いが、かなり恵まれた居室へとグレードアップすることになった。なによりキッチンが普通のIHで、今までの電熱線からようやく開放されることになったのも嬉しいポイントだ。

東京に戻れて一人浮かれている僕。
こんな状況からは思いもよらないが、このとき実は退社へのカウントダウンがヒタヒタと迫っていたことを僕はまだ知らなかった。。。

ここからはいよいよ物語の核心に迫る。
なぜ僕が会社を辞めることになったのか。
自分の情けない実体験ほど恥ずかしいものも無いし、できることなら思い出したくもなかった。だけど、僕はこの会社を経験したことで様々な気づきを得て、今日の僕がいる。
今日まで頑張って、そして一皮も二皮も剥けることができたのだ。
だからぜひ僕がどのような末路をたどったのか、顛末を知ってほしいのだ。