#19 束の間の平穏

僕の現在の職業はケースワーカーだ。ケースワーカーは仕事上様々な疾患の人と向き合うことになる。今だからこそわかるのだが、代官山課長はおそらく何らかの認知症(認知症と言ってもいろいろな種類がある)を発症しており、会社でうまく立ち回れることができなくなったんだと思っている。
曲がりなりにも課長にまで上り詰めた人が見る影もないのだから、認知症でなくとも、何らかの疾患があったのだろうと僕は考える。

さて、代官山課長が退職した後、僕の上司は誰だ問題が浮上した。また別の部署から引っ張ってくるのかと思っていたが、前の上司であった営業課長が業務課長を兼務することとなった。つまり再びパワハラを受けていた課長に逆戻りしたわけだ。

ただし、もともとパワハラ課長は営業畑でやってきた課長でもあり、生産管理の仕事は門外漢であったため、経験のある僕が引き続きほとんどの業務を行い、要所のみ課長とダブルで意思決定することで円滑に事が進んだ。課長は営業で忙しく、生産管理の部分であれば僕にほぼ任せても問題がないと判断していたようであった。

僕は入社して初めて怒られないで仕事ができるポジションになったのであった。
それからというもの、僕の生活には一時的な平穏が訪れた。

相変わらず残業は多く、一人で二人分仕事をしていたため、肉体的な負担は増えていったが、精神的な負担はほとんど無くなった。

僕は全国の課長たちを相手に自分が司会となって生産会議を取り仕切っていた。僕の仕事は工場の生産スケジュールを作成することと、生産能力が決まっている工場の生産枠をいかに適切に、平等に営業に対して分配するかがキモだ。
生産枠が少ないと営業課長に言われても、営業実績が芳しくないから生産を減らしてる、などと言って、データを盾に対抗することで、自分の立場を守っていた。
精神論ではあーだこーだうるさい上席たちも、データには強くないようで、理論武装さえすれば大して怖くなかった。

たまにどうしても先方からの依頼で断れないから、などと言って生産枠をなんとか確保しようと泣き落としをする部長までいたが、総じて大した事のない課長が多かった。
元同僚から最近聞いた話によると、泣き落としの部長は課長に降格し、事業部長との軋轢によって退社したそうだ。
部長まで上り詰めた人物ですらバシバシ辞めていく少し異常な会社。それが僕のいた会社だ。

そんなある日のこと、僕に2度目の転機が訪れた。
また人事異動があったのだ。

異動先:東京鉄スクラップ業務課

#18 今も役に立っているスキル/精神疾患について

大変だった生産管理であったが、この業務をすることで今後の人生のプラスになったことがいくつかある。

 

一つ目は仕事効率を上げるために、パソコンのあらゆるショートカットキーを覚えたことにより、作業時間の短縮が可能になったこと。

 

二つ目はエクセル関連書籍を購入し、実務の中で関数の使い方を覚えたことだ。

そのおかげで今はよく使う関数ならそらで手打ちすることができるまでになった。

 

上記の二つは会社員であれば資料作成等で誰にでも求められるスキルであるため、下手な自己啓発本なんかよりよほど役に立った。

 

また、副産物的ではあるが、生産会議の司会進行も任されていたため、僕が主導の元、全国の営業員と折衝を重ねながら生産スケジュールの微修正を行っていたため、様々なタイプの人間と難しい交渉ができる能力と、司会進行する胆力も身についたと思っている。

 

あと、これは僕からのアドバイスとして心の隅にでも留めておいてほしいことがある。僕は自分一人の窮地に立たされたとき、最大で月に70時間の残業をしたことがある。

 

残業70時間なんて大したことないと思う人がいると思う。だけどその発想は今すぐ見直したほうが良い。僕の経験上、人間は月に30時間を超えるくらいが限界だと個人的に思っており、70時間にもなると感情の起伏の低下やまともな思考力の欠如など、体に悪影響を与える。

 

もし今それくらいの残業をしており、似たような症状の人がいるならば、今すぐに周りに相談すること。もっとひどいときは専門相談員のカウンセリング、心療内科受診、離職を真剣に考えるべきだと思っている。

 

パワハラや過剰労働による精神疾患は一度患うと元気だった頃に戻るのが日を追うごとにどんどん難しくなっていく。早期の心のケアが大事だと心得てほしい。

かくいう僕もこの後更に追い詰められ、いよいよ精神的におかしくなりそうなときに、なんとか次の職場を決めることができたのだが、それ以上続けていたら、本当に精神疾患を発病しててもおかしくはなかった。

 

閑話休題。幸いにも上司がポンコツであったため、僕を怒る人はいなくなった。

生産管理にチェンジしたことで周りからの当たりも弱くなったように思えた。そのおかげで理不尽な怒られからくるストレスは大幅に減り、なんとか体調を維持することができたのだ。

さて、代官山課長のその後であるが、このブラック企業が見逃すわけもなく、連日ケチョンケチョンに怒られ、数ヶ月で会社を辞めることになった。前の部署では臭いものにフタをするようにとどめ置かれていたようだが、鉄スクラップ部の上層部は日々圧力をかけ続け、あっという間に退職が決まった。

#17 課長にも容赦のないブラック企業

代官山課長が出社してこない。電話を掛けてみるも繋がらない。

これはいよいよ事故か何かあったのではないのか、と、部長からちょっとお前が見てこいと言われ、上司の安否を確認するため課長が住んでいる江坂駅まで迎えに行くこととなった。

 

「自分の上司が出社しないから見てこい」こんなことは前代未聞である。普段滅多に行くことがないがない江坂駅に着くと同時くらいか、僕の携帯電話が鳴った。

「今すぐ帰ってこい、課長は見つかった」とのこと。どうやらすれ違いで既に課長は出社したようだ。

 

まじかよ、せっかく江坂まで来たのに…。

 

とぼとぼと帰社すると代官山課長は猛烈な勢いで部長に怒られていた。僕が帰るまで30分近くあったのだから、すでに30分怒られていたのか?

こういうときことブラック企業の本領発揮である。部長は普段そこまで怒るような人間では無かったのだがこの日は違ったようだ。普段怒られることなどない課長がケチョンケチョンに怒られている。

この光景を見てなんだかやり場のない虚しさを感じた。

 

事の顛末は単純であった。課長が朝起きられず、昼近くまで寝ていて電話もせず出社したことが部長の逆鱗に触れたようであった。

普通の社会人であれば昼に起きること自体が滅多にないし、気づいたらとにかく電話で一報入れなければいけない。社会人ルールを逸脱した課長の振る舞いに僕は違和感を感じた。

 

課長の失態はこれを皮切りにどんどん増えていった。

・エクセルデータ破壊

・会議の司会進行ができない

・様々な関係者と電話で揉める

・居眠り(しょっちゅう)

・会社に借金取りからの電話が掛かってくる

 

これはごく一部であるが、とにかく火種はいっぱい抱えており、火をつければすぐ炎上する危険な状態が続いた。

もともと業務課の仕事は課長と二人で分担する事務量であったのに、課長が使い物にならないため、関西の3工場は全て僕が管轄することとなり、事務負担は大変なものであった。

 

この状況下でさらに、上層部が思いつきで考えた営業予算と生産枠の連動による自動生産スキームの立案という夢物語のような施策にも関与させられ、日々資料づくりに追われ、酷いときは月の残業70時間超え、深夜タクシー帰りという日もザラではなかった。

結果的にその試みは失敗し、僕の心の疲弊と残業代だけが残った。この会社で良かったことは残業代が必ず申告通りもらえることであった。逆に言うとそのくらいしか褒められるものはなかった。

#16 代官山課長

僕が初めて働いた会社では新しい上司が決まるとその上司に電話をして「宜しくお願いします」と言う通例となっている。

新しい課長の名前は町の名前が付いていたため、代官山課長とでも名付けよう。早速代官山課長に電話をしたところ、課長は不在であったようだ。

電話口の社員に代官山課長の人となりを聞くと、なんともバツの悪い感じで、またかけ直しますとのこと。

 

しばらく待っていると先程の社員から連絡があった。自席からではなく、私用の携帯から掛けているようだ。内容としては、「ちょっと問題のある方で、注意してください。何かあればご相談に乗ります」といった趣旨の話だったと記憶している。

おいおいおい、俺の上司は問題のあるやつしかいないのか?勘弁してくれと頭を抱えた。

 

数時間後、ようやく代官山課長と電話が繋がった。あぁ、君が新しい部署の〜。そうか、よろしく~。うちの会社にはいないようなゆっくりした口調。のんびりしているのか、眠いのかよくわからないような感じであった。思ったほどヤバくはない…のか?

 

そうこうしているうちに課長が異動してくる日がやってきた。そして初顔合わせ。課長の見た目は岸部四郎のような見た目で、高齢なことが伺えた。

生産管理の仕事について、何から手を付けていいのか分からず、色んなところ、色んな人に仕事のやり方を聞いているようだが、いまいち要領を得ず、ボーッとしてやる気は感じられない。

肝心の課長がこんな感じなので、見かねた東京本社スタッフが声をかけてきて、東京に出張して今までその業務をやっていた人に教えを請うこととなった。

 

東京出張初日、代官山課長は新幹線の切符を無くしたかで遅刻しているようで、指定の時間には僕だけが着いた。遅れて課長がやってきたが、気もそぞろで、教えを請うような気配も無かった。僕は必死だったため自分の与えられた役割を覚えることに注力していた。

生産管理の仕事は初めてだったので飲み込むには時間がかかったが、一週間ほどのレクチャーでなんとか覚えることができた。

 

過去の販売データと営業が入力する今年の販売予測をもとに月間の生産スケジュールを作る。そのスケジュールを工場に送り、日単位のスケジュールを作成してもらう。工場で生産する商品はほとんど僕のスケジュール通りに作られることがわかり、責任の重大さを感じることになった。

結局のところ、僕はレクチャーを受け続けていたが、ついぞ課長がレクチャーに加わることは無かった。この時から課長は仕事ができないタイプの人間ではないかと気づき始めたのだった。

 

大阪に戻ってからも課長は仕事をする気配がなく、お飾り課長として席に座っていた。僕からすればただでさえ新設で忙しいにもかかわらず、席でボーッとしてたまにゴニョゴニョ雑談をしてくる課長は邪魔にすら感じていた。

そんなある日のある朝、代官山課長が出社して来なかった。

#15 組織改編の波に飲まれる僕

僕の大阪生活に転機が訪れたのは大阪に来て1年半経ったある日だった。
平凡に得意先回りをし、上昇志向はなく、淡々と営業をしていたある日である。
唐突に僕に人事異動が言い渡された。
しかもただの異動では無く、組織改編であった。

ブラック企業にありがちなのだが、組織改変と異動がやたらと多いのだ。

仕事を進めていたらある問題に行き詰った。
だったら部署を変えて一新してはどうかと。
計画性の無い上層部は社員を駒のように扱い、そのため特に管理職はそのあおりを受け、人事異動の度に部署を飛びまくっていた。

また、これもブラック企業あるあるだと思うのだが、離職率が高いため、辞めた人の穴埋めをするとその穴を埋めるためにまた穴ができるという無限玉突き事故が往々にして発生する。一人だけ異動させれば良いのに、なぜかそうはいかないのである。

定年退職を迎えた(この会社で定年退職できる人はかなり珍しいのだが…)大阪支店の支店長が退職の挨拶のときに言った一言は忘れられない。
「僕は今まで25回の部署異動を経験しまして…」
25回!!?
20歳から60歳まで働いたとして、40年間。
40年という月日に対して25回ということは、2年に一度を上回るペースで異動してきたことになる。しかもその異動でほとんどの都道府県に踏み入れたほどだったという武勇伝を語っていたが、とても笑えるものでは無かった。

さて、本題に戻るのだが、前述の通り今回は「組織改編」ということで、僕の異動は完全に新設の部署となった。
その名を「鉄スクラップ業務課」と言った。

今までの鉄スクラップ営業課の隣に業務課が誕生し、異動してきた課長、僕、前からいた女性社員4名で合計6名体制の課が誕生し、僕はなんと次席というポジションになった。
なぜ次席になったかというと、そもそも4名の女性社員は正社員ではなく、唯一の正社員が僕であったため、次席になったのは至極必然であったのだ。

業務課と聞いて、僕はてっきりショムニのようなものを連想していたが、実際には全く違っていた。
業務内容は関西にいくつかある工場の生産管理者で、全営業員が打ち込む予算・在庫・販売データをもとに3カ月先まで見通し、工場の生産スケジュールの大枠を組んでいく仕事だ。
この大枠のスケジュールを工場に投げ、細かな修正点を加えてもらい、生産スケジュールが確定する。いわば家の骨組みとも言うべき重要な仕事であった。
そしてここで出会った課長が、人生稀にみるトンデモ課長であったのだ。

#14 怒られスパイラル

さて、僕がポンコツ営業員で、仕事で毎日のように課長に怒られていたのだが、どういった理由で怒られていたのかについて、今になって分析してみたいと思う。

●自分の意見が無い
営業から戻り、課長へ報告を終えると、よくこんな返事が返ってきた。
「それで、お前はどう思っているの?」「じゃあどうすれば良いと思う?」
ここで、とにかくつまづくのだ。「えっと、そうですね。。」
そして、「お前、自分で考えてないの?」「俺が答えを出してくれると思っている?」となる。
何も考えていないお前が悪いと思う人もいるかもしれない。だが、そこにそんなに深く切り込んで質問する必要があるのか?というニッチな部分を突かれると、対応ができない。

●必要のないことまで言ってしまう
報告の際、当初予定していたことを言ったのだが、課長の反応がいまいちであると、もっと情報を出さないと満足してもらえないのではないかと思うことがある。
そして、そういう時、つい言わなくても良い情報や、微妙にニュアンスを変えて自分を大きく発言をしてしまうことがある。
言った後、自分でもなぜ言ってしまったのか分からないし、結果的にそういう時は課長も敏感に察知し、それ本当なのか?と問い詰められることになる。

●怒られグセがついてしまう
これは、他の人でも経験したことのある人がいるのではないだろうか?
上記のような問答は僕の時だけで、他の営業員には問いかけはせず、むしろアドバイスをしたりすることもあったぐらいだ。
そもそも論として、この段階まで来ると、課長は何かあれば指摘をして「こいつを叱ってやろう」と思っていたのかもしれない。
大して悪くないことも、指摘が日常化すれば、何かまたやらかしたのではないかと、日ごろの行いが全て悪いように見えてくるのが集団真理だ。僕はそんな見えない蟻地獄につかまり、もがき苦しんでいたのだ。

●考えすぎて報告の仕方が分からなくなる
上記の通り、怒られが日常化すると、最後の方では何を言っても怒られることになるため、報告はいつも緊張し、委縮してしまい、結果的に報告の組み立てがぐしゃぐしゃになり、わけのわからないことを言ってしまうことがある。

もうここまで来ると末期症状であり、ここからの普通社員への復帰は至難のわざである。
この一連の流れを「怒られスパイラル」と名付けてみることとする。

そして、この怒られスパイラルを回避する方法はたった一つである。
それはこの状況にならないことだ。一度なってしまったら手遅れである。
もしこれを見ているあなたがこの状況になってしまったら、転職について考えることもお勧めしたい。僕が転職して生まれ変わったように。

#13 初配属の裏で起きていたこと

初めての配属が東京であったらどうなっていただろうと考えることがしばしばある。
あくまでもifの話なのだが、営業成績は置いておいて、相当な熱量を持って仕事に取り組んでいたのではないかと妄想することがある。

前段でもお話ししたが、研修では真面目な勤務態度と、テストの成績も良かった。
研修開始の30分前には席に着き、最前列でメモを取り、熱心に座学を学んでいた。
本望の営業部では無くとも、東京にさえ帰ることができていれば、目覚ましい活躍を見せていた可能性があったかもしれない。

余談ではあるが、もう一つ僕の人物像についてのエピソードがある。

僕が一番行きたくなかった鉄スクラップ部門であるが、実は会社を代表する営業部で、とてつもない利益を出していた。
僕が入社した年の最初の人事異動をぐるぐるにかき乱した前述の副社長は、何を隠そう鉄スクラップで鍛え抜かれ、営業のトップに上り詰めた人物であったのだ。
そのこともあり、営業部間の力関係で優位に立っていた鉄スクラップは、新入社員の采配についても一定の人事権を持っていたらしい。
優秀な社員を見極め、鉄スクラップに持ってくるように。と。そして白羽の矢が立ったのが僕であったのだという。

なぜ僕がこんなことを知っているのかというと、長宗我部先輩に聞いたからだ。
長宗我部先輩は中途採用で、僕より早く会社に入社したのだが、新入社員と同じ研修は受けていなかったため、実は少しの間、僕らと一緒に工場を回ったりしたことがあったのである。

長宗我部先輩に与えられたタスクは大きく二つあった。
一つは新入社員に負けない知識を短期間で身に着けてくること。
そしてもう一つは「優秀な社員をピックアップしてくること」だったらしい。
どこまで長宗我部先輩の影響力があったのかは不明だが、僕のことを課長に報告したと言っていた。

そう、つまり僕は会社の収益源の部署に配属になったと共に、そこの社員から一本釣りされたのだ。
言い換えると、僕はめちゃくちゃ期待されていたのだ。
そして、今となっては本当に申し訳ないのだが、結果的にみんなの期待を見事に裏切ることになってしまったのである。
上々の成績を納めている部署で華々しくスタートする可能性があった営業員としての生活。千載一遇のチャンスが転がっていたにも関わらず、理不尽な人事と恨みがましい自分の性格がそのチャンスを棒に振ってしまったというわけだ。

僕を一本釣りした長宗我部先輩は笑顔でそのエピソードを話してくれたが、僕としては内心余計なことをしてくれたなと、怒りすら沸いて聞いていた。