#21 分岐点

僕が東京に来て配属された東京業務課は、僕と係長、そして女性社員2名の計4人の小規模な部署であった。

係長は僕が東京で研修を受けたときにマンツーマンで教えてくれた人で、仕事上では頼りになり、周りともうまく付き合うが、多くの社員と違い、群れることを嫌う孤高の存在であった。

この会社ではある程度上の立場になるほど派閥のようなものに巻き込まれるが、それに属さずとも自分の才覚だけで渡り歩く稀有な人であった。

ちなみにこの係長も数年前、退職したという情報を伝え聞いた。ただし、会社に愛層をつかしたのか、貯金が貯まったからなのか、真意は不明であるが、自らの意思で退職したと聞いている。

僕が東京に異動してからも基本的な業務は何も変わらなかった。
工場のスケジュールを作って、生産枠を決定して、工場と微調整をして…。僕はこの頃には業務に習熟しはじめ、残業時間もかなり削減できたため、仕事もほどほどに私生活に打ち込むことが増えた。

今までの生活では全く考えられなかったが、私生活はどんどん充実し、ジム通い、登山、ボルダリング、マラソン、ダーツなどアクティブな趣味をどんどん見つけ、生活における仕事の比重はどんどん減っていった。

伏線回収であるが、大阪に配属された直後にテレビ電話で「やる気のない人だなぁ」と思われた同期(今の奥さん)と付き合い始めたのはこの時期である。

そしてこのころ、係長から僕の運命を決定づけた課題が課せられることになった。

それは生産した商品を全国に配送する際の物流費を減らせというミッションであった。
係長は物流費を減らせと言っても、やり方はお前に任せるとの話であった。

どうやらうちのトップである事業部長からそんな指示があったようだが、実際にこれをすれば軽減できるという青写真すらなにも無い状況で急に言い渡されたのである。ちなみに僕の業務は生産管理が中心で、物流については門外漢だった。

この課題は僕が最も苦手とすることであった。無から何かを生み出す。前例の無いことに向き合う。

もちろんこのときは何か手段があると思って、物流課の同期と話したり、過去の資料を漁ってみたりしたのだが、物流費の下げ方など皆目見当がつかなかった。また係長も自分で課題を出しながら、これをしてみろなどと言わないタイプの人間であった。